Review: julij 2005アーカイブ


kimura.jpg木村元彦『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』

コソヴォ紛争は「終わった」ことにされているが、終わったどころではないし、NATOによる介入こそが事態を悪化させ、いまなおその後遺症が続いていることはさまざまな形で明らかになってきている。

だがそれはヨーロッパの連中は認めたくないことだし、日本の連中は無関心で、どちらでもいいと思っている。

事態をきちんと捉えようと思ったら、木村元彦さんのこの仕事は、第一に参照すべき書物の一つに数え上げなければならないだろう。自らの身を数々の危険に晒しながら、ほんとうの「現地」で確かめながら書かれた言葉。


しかし、瑣末なようだけれども指摘しないわけにはいかないことが一点。巻末に、かつて PLAYBOY 誌に掲載された木村さんのペーター・ハントケとの遭遇の記録が改めて収録されている。NATOの空爆に初めから強く反対し、ヨーロッパ中からバッシングに遭っていたハントケとの。木村さんがそういうハントケに関心を抱いたのは当然のことだし、また邂逅が実現したのも、読者としても幸福なことだと思う。しかし残念ながらこの中の、ハントケがクラーゲンフルトやザルツブルクの大学からの名誉学位を「当然」断ったという記述は事実と180度異なる。アカデミズムを権威権力に見立てたうえで、反権力の方向から筆がすべったのだろう。しかしことはそう単純ではない。うかつにあるいは意図的に流される言葉の多くとはちがって、事実というものが込み入ったものであることは、木村さんご自身がよく知っておられるはずなのに、たとえばミロシェヴィチさえ権力=悪玉と名指せばあとはどうでもいいという頽廃と、構造としてはほとんど同型のもの言いになってしまっている。

ハントケはどちらの学位も受諾している。それぞれの機会に語られた言葉を纏めた小冊子も出ている。
Peter Handke, Adolf Haslinger, Einige Anmerkungen zum Da- und zum Dort-Sein
Peter Handke, Klaus Amann, Wut und Geheimnis
上がザルツブルクの、下がクラーゲンフルトの記録。ヨーロッパ中から叩かれていたハントケに対してあえて名誉学位を与えるという選択の政治的な含意は考えない訳にはいかないはずだし、少なくともクラーゲンフルトに関しては、もう一つの問題が絡んでくる。ハントケがクラーゲンフルト大学で行った実に不思議な記念講演は、ほとんどケルンテンのスロヴェニア系作家の紹介で埋められているのだ。つまり公式にドイツ語スロヴェニア語二言語地域であるはずのケルンテンにおける、スロヴェニア系のあいも変わらぬ弱い地位という問題が根底にある。ハイダーのいるクラーゲンフルトでこういうことを語る意味をちょっと考えてみればいい。そしてかの地でこういうハントケに学位をやることの意味をちょっと考えてみればいい。(ハントケは、フロリヤン・リプシュなど不当に冷遇されていたケルンテンのスロヴェニア語作家の作品をドイツ語に移し紹介するという仕事も、かなり以前からやっている。)

PLAYBOY 誌掲載後、木村さんとハントケの媒介者である元吉瑞枝さんから訂正の必要がある旨連絡なさったように伺っていたのだが、そのまま再掲されてしまった。ボスニアからセルビア、コソヴォに到るさまざまな戦争については、ハントケのテクストと並んで、木村さんの仕事を前提として考えてみるべきだと思っている僕にとってはとても残念なことだ。たぶん、「アカデミズム」という括りで大学や大学周辺にいる人間を眺めるのをやめたほうがいいのだと思う。単純に、いろんなのがいる、というだけのことなのだから。「ジャーナリスト」にもいろいろなのがいるのと同じように。

いや、まずもって僕自身を戒めるべきだろう。スロヴェニアには繰り返し行っているし、ハントケの発言には注意を払っているが、コソヴォはもとよりセルビアにも行ったことがない。いまの僕にとって行かなければ「いけない」ということはないが、行っていないのにセルビアについて何かを語らざるを得なくなるときには、木村元彦を読まなければいけないということは当然の前提として、その上でさらに十分心しなければならないだろう。

この前、カレーソーセージをネタにしたら、Uwe Tim による小説、4309204392.09._PE_SCMZZZZZZZ_.jpg
『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』
の邦訳が出ていて、この浅井晶子さんの翻訳であわてて読んだ。レーナと呼ばれるある女性の愛の物語が、一般に流布しているベルリン起源説とはちがった、ハンブルクを舞台としたカレーソーセージの起源神話となり、それがさらにそのまま戦中戦後のドイツの歴史の語りにもなっている。一人の女性に焦点化した戦争時代の物語という意味では一頃までのNHKの朝ドラに重なるのだが、ウーヴェ・ティムのストーリーテラーとしての力は確かなものだし、翻訳もなかなかいい。訳者とともに、自分は「本物の」カレーソーセージを食べたことがないのかも知れぬ、という気にさせられる。

サッカー・ワールドカップやら「日本におけるドイツ年」やらで、一般向けのドイツ関連の本が少し増えているようだ。そんな中からたまたま目にとまったもの。

ドイチュラント ドイツあれこれおしながき
輸入雑貨店の店頭で見つけて手に取った。つまりそういう店に似あう本。著者のアンテナにひっかかったものを並べた、目一杯偏ったドイツ紹介。それがそれで面白い。5年前ドイツで暮らし始めたとき自分とドイツを結ぶものと言えば「ケストナーだけ」だったという著者、「いつも〈今日はどんな切り口でこの国をこの街を味わおう〉かと考える。喫茶店のメニューを眺めるときのあのわくわく感がたまらなく好きだから、同じように書き並べてみた。ドイツの魅力的なあれこれを」、という冒頭の文句にこの本のコンセプトが要約されている。ベルリンのカフェ、ベルリンの熊たち、カール・マルクス・アレー、ベルリンの書店、ドレスデンのケストナー博物館、E. O. プラウエンの『おとうさんとぼく』、ドイツの古本、ドイツのレコード、ザントマン、ニュルンベルクのクリスマスの市、犬の街ベルリン、エーリヒ・メンデルスゾーンの建築、ベルリンの蚤の市、などなど。写真などのグラフィックが美しく、いっぱいに開いて見たい本なのに、製本が粗末で、ページがばらけやすいのが難点。なお、65ページの、ビリー・ワイルダーが1954年版の『エーミールと探偵たち』を監督したというのは誤りだろう。前のエントリで触れたが、31年版の脚本を書き、54年版にはそのまま台本作家として名前がクレジットされているだけだ。監督はいずれも別の人物。

ゲルマンQ―ドイツ語初心者向け雑学クイズ
新書サイズで黒赤黄の思いきりキッチュなカバーデザイン。「日本におけるドイツ年 2005/2006」参加作品、だそうだ。要するに外来語として何らかの形で日本に入っているドイツ語の単語を主なネタに、260あまりのミニ・クイズに仕立てたもの。知るということが未知のものを既知のものに還元していくことだとするならば、謳い文句通り、「ドイツ語初心者」の語彙学習にはこの本は確かにプラスになるだろう。いや、僕が気がついていなかったものもいくつかあった。
帯に引用された「この本を読んでみるとドイツ語が頭の中に入りやすい気がしました」という高原直泰の文句が微妙に正直でいい。「気がしました」…。

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