フーゴー・リーマン以来、西洋古典音楽におけるアウフタクトの重要性(誤解を恐れずに一言で言えばアウフタクトが「長く」なること)ぐらいは知られているはずなのだが、初歩的な(クラシック系の)音楽教育の現場には依然として浸透していない。あるいは軽視されている。原因と考えられることはいくつもある。
・均等拍が「自然」で「正しい」かのような観念が今なお支配的であること。均等拍を前提としたポップスやロックが量産され、人々の耳が絶えずそれにさらされていること。(もちろんメトロノームも電子ピアノもこの観念を助長している。)
・日本語の「拍」、英語の beat という概念。いずれも拍の入りを表す概念だ。日本語で他の言葉がないから、ここで「拍」を二重の意味で用いざるを得ないのだが、拍は、長さを持っている。ところが、「拍」やビートは本来その頭、出だしを指すに過ぎない単語であるだろう。(これは鍵盤楽器や打楽器にきわめて親和的だ。だからピアノが音楽教育の中心になっている事実もこの複合的な問題の原因の一つになっていると考えられる。)
ある程度まっとうな教育現場では、たとえばピアノ奏者に対しては、第一拍に入る前に待つとか、ausklingen させる(これをどういう日本語にしよう? 響くにまかせて、自然に響き終わらせる、という感じだ)、などの指導が行われているようだ。だが、これはピアノ特有のメカニズムに対応した言い方であるので、弦、管(あるいは声楽)には別の表現が(あるいは弦、管にも対応した一般的な考え方が)必要になる。
弦楽器の場合、通常、アウフタクトは上げ弓で奏されることが多い。このことは、技術的に未熟な奏者(「アマチュア」と呼びたければ呼んでもいいが、その定義は今は措いておこう)にとってはとりわけ問題を引き起こす。アウフタクトが上げ弓になるということは、弓元を使い切り、上げ弓から下げ弓に柔軟に移る技術が欠けているならば、アウフタクトの適切な表現がきわめて困難になることを意味する。


