Bons voyages: april 2005アーカイブ

考えてみると、このドブロヴニクでは、いろいろな人々に出会っている。

数日たって、いかにもバックパッカーという出で立ちのオーストラリア人の若い男の二人組が宿の客に加わった。きっとまたおばちゃんがバスターミナルから引っ張ってきたのだろう。やがて僕が夕食をごちそうになっていることを彼らはかぎつけた。へんだなあ、どういうことだ? と問われて曖昧にごまかし、おばちゃんには、もう夕食はいいよ、と言った。子供たちは、えー、なんでー? と言っていたけれども、おばちゃんはほっとしたようだった。しかしこの二人とはまあまあ仲良くつきあって、一緒に旧市街を歩いたりもした。

旧市街は古い城壁に囲まれていて、車はいっさい入れない。城壁の入り口の一つ、ピレ門から、ルジャ広場まで二百メートルあまり、異様に広い目抜き通りのプラツァ通りがずどんと通っている。舗石は年月にみがかれて、つるつるに光っている。プラツァ通り以外の道は、すべてとても細い。

セミナーハウスには、他にもいくつかのグループが来ていた。フランクフルト大学からも社会学系の連中が一団体、やってきていた。その参加者の中に、パトリシアという女の子がいた。アルゼンチンからフランクフルトへの留学生。小柄で、黒い髪を長く伸ばし、眼のくりくりした、8分の1日系だという彼女は、ドイツ女ばかり見てきた眼にはとってもキュートに見えた。クロアチア語でお茶のことを「チャーイ」と言うということが、ことのほか嬉しいらしかった。ちょっと舌足らずな感じのドイツ語をしゃべり、僕の片言のスペイン語を笑っていた。一緒に町の回りの城壁の上をぐるぐる歩いたり、町の先端の水族館の脇にあった薄暗い食堂でパスタを食べたりした。でも、なぜだったかは忘れたが(たぶん実に些細な行き違いだったはずだ)、そのうちうまくいかなくなって、後半は全然顔を見なかった。いや、一度、ドイツ人学生らしい男と連れ立って歩いているのを見た。

ドブロヴニクの人々は、夕刻になるといっせいに外に出てくる。そしてさしたる距離でもない旧市街の目抜き通りの石畳の上ををひたすら行ったり来たり散歩し、あるいはまた戸外の席でチャーイを飲んだりするのだ。このいかにも南欧の、夕方の散歩の時間のざわめきには、独特の雰囲気がある。

われわれのセミナーには、もちろんベオグラードの哲学者もいた。初日、宿に戻るバスが分からず困っていた僕を助けて、町の人にバス停を尋ねてくれた。そのときの、セルビア人の彼とクロアチア人の地元の人間との間のやりとりに何か不穏なものがあったのを覚えている。クロアチア人は、ふつう、髭を伸ばさない。細面ながら黒々とした総ひげの彼は、見るからにセルビア人だった。残念ながら、当時、やりとりの言葉は分からなかったのだけれど、すでにセルビアとクロアチアのぎくしゃくした関係が影を落としていたのかもしれない、とあとになって思う。

フランスからフィリップ・フォルジェもセミナーに参加していた。ドイツ人よりも流暢なドイツ語をしゃべった。ドブロヴニクの沖合に、ロクルム Lokrum という島がある。さほど広くはないのだが、三カ所ほど浜があって、夏は海水浴客でにぎわうという。セミナー終了の前日、その島への遠足があった。二十人も乗ればいっぱいになってしまうような船が、町の波止場と島を結んでいた。島の野原には孔雀がいた。放し飼いの、と言うべきなのか野生の、と言うべきなのかは分からない。島の遊歩道を、フォルジェとおしゃべりをしながら散歩した。サングラスをかけて、饒舌な、気さくな優男。長年続いているこのセミナーの、次回のテーマの話。フォルジェは文学寄りに持っていきたいのだけれど、他の哲学者連中がいい顔をしないのだ、とか。次回はヘーゲルになりそうだ。ヘーゲルを文学として読んじゃえばいいじゃん、哲学だって文学でしょ、と言ったら、うん、その通り! と嬉しそうだった。(この数年後、日本からT. 高橋氏がフォルジェのところに勉強しにいったのではなかったかと思う。)

フォルジェと船着き場近くに戻ったところで、ウィーンから来た大学生の女の子に出会った。フランスに勉強に行きたいです、と言う彼女に、フォルジェは嬉々として連絡先を教えていた。そのあと、僕は彼女と話し込む。船着き場にはいくつものムラサキウニがへばりついていた。日本ではね、こいつを食べるんだよ、と説明しながら割ってみせると、全部オスだった。ちょうど、すでに満員の、前の船が出るところだった。屋根のないその船の中に、パトリシアの姿が見えた。連れらしい人物はおらず、一人で座っていた。じっと僕の方を見ていた。少しふくれ面になっているように思えた。

次の船で町に戻り、すでに夕刻の散歩に出てきていた人々の雑踏の中にパトリシアの姿を探したが、見つからなかった。同じセミナーの参加者で、カイザーズラウターンから来ていたでっぷりした哲学者に呼び止められて、ドブロヴニク最後の夕食を一緒に摂ることになった。

翌朝、ドブロヴニク郊外の空港から、往路とは違って一直線に、ドイツに戻った。連絡先も聞かなかったパトリシアには、それ以来再び会うことはなかった。あの船の中のふくれ面が最後。今頃、どこでどうしているだろうか。

あのセミナーにも(すくなくとも何年か続いていたはずだが)、その後、参加していない。すでにジーモン先生も退官されてしまった。

あの民宿のこどもたちだって、その後いわゆる多感な時期にいわゆる内戦があったことになるわけで、そして無事であればもうとうに成人しているはずで、どうしているだろうか。

あのベオグラードの髭の哲学者も、この十年を生き延びて、ようやく新たな歩みを踏み出しつつあるあの国で、元気だろうか。

筆無精な僕には、すべて、分からない。民宿のおばちゃんも、オーストラリアの放浪者たちも、みんな、それぞれに、しっかり生きていてくれればいいなと思う。

# なんだか紅茶とマドレーヌのかわりにアスパラガスから始まる〈失われた時を求めて〉になってしまった…。

    
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庭のないアパート暮らしだと、ついこんなものに手を出す。
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近くの「ホームセンター」で購入。紙箱をあけると、ポリ袋の中に土が入っていて、そこに直接水をやっておくと、アスパラガスが伸びてくる。パッケージ写真のような立派なのはもちろん出てこない(世話の仕方が悪かっただけ?)。鉛筆、いや、箸ほどの太さのものが数本収穫できただけ。

...いや、野生のアスパラガスだと思えばいいのだ。

1989年の春にドブロヴニク Dubrovnik (ユーゴスラヴィア。いまのクロアチア)の民宿に泊まったとき、宿のこどもと裏山に野生のアスパラガスを採りにいった。
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ボンの大学にいたときのことで、大学の哲学の先生、ヨーゼフ・ジーモンが主催するニーチェをテーマにしたセミナーが一週間、ドブロヴニクであって、それに参加した。ドブロヴニクは「アドリア海の真珠」。まわりをぐるりと取り囲む城壁とともに、古い町並みがそっくり残っている。
Dubrovnik Online, Travel Guide for Dubrovnik and Dubrovnik Region
Grad Dubrovnik - City of Dubrovnik
歴史的な参考書には、バリシァ・クレキッチ 田中 一生(訳)『中世都市ドゥブロヴニク』がある。

観光案内的・旅行記的な情報は、日本語でもすでにネット上にふんだんに見つかるはずだ。上の Dubrovnik Online には美しい写真集もある。旧市街の外には当時すでにリゾートホテルもあった。そのころはまだユーゴスラヴィア解体前。紙幣にはティトーの肖像があった。ドブロヴニクの町の外、小さな岬の上に、セミナーハウスがあって、当時のユーゴはそういうところに安い価格で国際セミナーを一生懸命誘致していたのだと推測する。

僕にとって初めての「東欧」だった。ボンから寝台列車でウィーンへ。数日いて、リュブリャーナに移動して二三泊し(これが僕にとって本当に初めてのスロヴェニアだった)、そこからまた寝台列車でアドリア海岸に出て、それからきらきら光るアドリア海岸沿いにバスでドブロヴニクまで行った。旧市街のすぐ外のバスターミナルで降りると、民宿の客引きにきているおばさんたちが何人もいた。ルーム、ルーム、ツィメル、ツィメル...。ツィメルというのはドイツ語の Zimmer のことだった。

そういうおばさんの一人につかまって、セミナーハウスにも宿泊施設があることは分かっていたのだけれど、これも面白いか、と泊まることを承知した。客引きに一生懸命だったのだろう、(本来付かない)夕食も食べさせる、とおばさんは約束した。まあ、一二泊してみて、気に入らなかったら途中で出るよ、と言ってオーケーした。僕はクロアチア語はからきしだったから、片言のドイツ語や英語の会話だったはずだ。

おばさんの家は、ドブロヴニクの旧市街からはちょっと離れたところ、バスで数分、それからさらに坂道を上ったところにあった。
男の子が二人いた。立ち入って尋ねたりはしなかったが、亭主の姿は見かけなかった。おばさんは、ちょっと疲れた、キッチンドリンカーのような気配があった。上の子は、中学二年生ぐらい。とてもしっかりしていて、習い始めたばかりの英語をけっこう上手に使いこなし、通訳の役を果たしてくれた。最初、他に客はおらず、夕食はこの家族と一緒に摂った。海辺の町、魚介類がおいしかった。料理にはたいていオリーブオイルをふんだんに使った。

時間のあいていた午後、この上の息子と裏山に野生のアスパラガスを採りにいった。石灰岩の岩がごろごろしていて、わずかに木が生え、下薮の生い茂った道らしい道もない斜面に入っていって、探す。アスパラはやはり細いもので、ひょろひょうろと一本ずつ伸びている。子供は薮の中に次々に見つけて摘んでいく。そのうち僕も慣れてきて、見つけられるようになった。「この人すごいよ、すぐに見分けられるようになったよ」と、帰ってから、子供は母親に報告していた。これもオリーブオイルで炒めて、みんなで食べた。(たぶん続く)

    
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なぜスロヴェニアか?

元はと言えば、およそ10年前、ペーター・ハントケのDie Wiederholung、 『反復』という小説(1986年刊)の翻訳(1995年刊)に携わったからだ。(なぜハントケか、というのはまた別の話になる。)ハントケはオーストリアの、(スロヴェニアと国境を接する)ケルンテン地方出身の現存作家。母親がスロヴェニア系(ケルンテンには多い)で、『反復』は、主人公が自分のルーツを求めてスロヴェニアを旅する物語。
翻訳という作業には、ハントケのドイツ語が語っているものを自分の眼で見て、どういう日本語に移せばいいか考えなければならない部分がある。それでスロヴェニアに行った。1994年夏のことだ。首都のリュブリャーナは、1989年に一回訪れている。そのときはまだユーゴスラヴィアだった。そして1994年といえば、スロヴェニアの独立からまだ3年しか経っていなかった。

今現在、スロヴェニアに関する一番しっかりした旅行ガイドは、おそらく、オーストラリア(オーストリアではない)の出版社が出しているLonely Planet Sloveniaだが、1994年にはまだ出ていなかった。独立後間もないスロヴェニアに関する情報は、確実に今よりも、そしてたぶんそれ以前のユーゴ時代よりも、少なかったのではないかと思う。僕にとっての唯一のガイドは、ハントケの小説だった。ハントケ・オリエンテーリング。小説だから、すべてが「事実」通りであるわけでもない。交通機関や、宿泊施設についてもよく分からないまま、物語の中の記述をもとに、おそらくここだろう、おそらくこう行けばいいのだろうと見当をつけて回った。だから、少々の不安とともに、ちょっと冒険的な、ちょっとわくわくする部分があったように思う。

たとえばボヒン地方。物語を頼りに、物語通りに、オーストリアから列車でイェセニツェに入り、そこで乗り換えてボヒンスカ・ビストリツァで降りた。山の中の小さな駅。回りから一段高いところにあって、駅の背後は製材所だった。駅前の小さな広場から、ちょうどバスが発車するところで、運転手は、乗らないのか、と身振りで尋ねてきた。乗っていくべきものか、よく分からなかったから、いや、いい、と身振りで答えた。バスが降りていったのとは違う坂道を、スーツケースをひきずって下っていった。大きな牧草地が広がっていて、その真ん中に大きな黄色い教会が立っていた。
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少し離れたところに、レストランらしきものが見えた。そこまでたどりついて、とにかく腹を満たす。正確に何を食べたのか覚えていないが、ドイツ-オーストリア系に近い食事も、たっぷりしたデザートも美味かった。レストランはペンションもやっていることが分かって、部屋も注文する。ペンション・トリピッチ(そう、いまでは「ホームページ」もある。でも当時はそんなものもなかった)。そこに漂着し、上陸した。

少し先には郵便局や、スーパーなど数軒の店もあった。町と呼ぶにはまばらで、村と呼ぶには大きい、そこが、ボヒン地方の入り口であり中心であるボヒンスカ・ビストリツァ Bohinjska Bistrica だった。町は清冽な小川を渡る石の橋で終わり、その向こうの道の両側には、まだまだ広大な牧草地が続いていた。

やがてここが、僕が好んで訪れる土地になる。

    
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