前のエントリで書いたように、大学の初心者集団のアンサンブルを、ときどき診ている。今年は珍しく「経験者」の新入生が多くて、いろいろと面白い新たな「経験」をさせてもらっている。ヴァイオリンの「経験者」で、いまレッスンでメンデルスゾーンの協奏曲をみてもらっています、という学生(月末にこの曲で「コンクール」に出るそうだ)がいて、先日、その演奏を見せて/聴かせてもらった。そのときに言ったこと。
・きみはハイポジションに行ったときに背中が丸まって前屈みになる癖があるようだ。意識して逆に動いた方がいい。ハイポジションでは左ひじが中に入ってくる。前屈みになれば、ひじは体に当たりかねず、いずれにせよ動きが不自由になる。ハイポジションに行った時こそ、胸を張った方がいい。
・もっと大きなフレーズを考えて組み立てよう。音楽は(少なくとも演奏する場合は)一音ごと、一小節ごとの足し算ではなくて、初めにフレーズありき、曲ありきの割り算なのだ。大きなフレーズを考えて、その中で部分部分をどうはめ込んでいくか考えた方がいい。
・弓の配分をもう少し考えよう。付点二分音符は4分音符の三倍の弓幅を使う、というのは初心者に対して言われることであって、いつまでも杓子定規に守っていてはいけない。前のフレーズが付点二分で終わり、次のフレーズ(のアウフタクト)が4分で始まって、いずれもアップボウになるとき、むしろ弓幅は逆転して1:3であってもいいし、アウフタクトは弓を先まで戻してしまって弾いたっていい。
・アルペジオでぱらぱら跳ばすには、右手首の動きを加えるといい。ダウンの最後で手首から先を下に振り、アップの最後で上に振る。
・弓先アップでアクセントを付けるのがうまくいっていないようだ。それをやるにはコツがあって...。
などなど。
まあ、確かに、こんなことを「教え」、相手の演奏がたちまち変わっていくのを見ていると面白い。一般教養の語学教員たちが自分の(無理矢理でっちあげた)「大学院」で、院生を教えたいと思う気持ちも分からないでもない気がしてくる。



でっちあげた「大学院」に、教えがいのある院生がたくさん来ればいいですけど、無理矢理つくると、院生も無理矢理入れる、なんてことにもなるわけで...。となると結局は、年齢がちょっとばかし上の人間を相手にした「一般教養」ってことにも。
こういう楽しさは、数少ない、ある程度のレベルにある人間を時々相手にするからこそ味わえるような気がします。私が芝生の反対側の小さな学部にある大学院で経験した限りでは。
tsujigaku さん
おっしゃる通り。箱(枠組み)としてでっちあげてしまうと、いろんなのに入ってもらわざるを得ない。
ぼくが一つ思ったのは、ヴァイオリンを弾くってのは、それだって追究していけばきりがないというのは当然として、ある意味で完結したスキルだと。そしてぼくが人文系の大学院で学生をもったとして、そういう完結の仕方は考えられないんですね。ぼく自身ある意味専門があってないような人間だし、どうしたって拡散してしまう。そういう中で学生を見ることにもそれはそれで面白い部分があるだろうとは思うけれど。で、院生をほしがる人たちというのは、そういうところでも完結できてしまっている人たちなのではないかなと。言っていること、分かります?
人文系の学問ってのは、分野によって差はあるでしょうけれど、未知なる視点や切り口との出会いが命(と言って大袈裟なら、喜び)なので、そのためには閉じた体系を持つのでなく、新しいものと常にふれあっていく必要があります。となると、どうしても拡散の方向に全体像は向かうことになる。論文とか研究書ってのは、その一部を切り取ったものに過ぎず、どうしてもそこで、汲み取り切れてないものが残る感じ(残糞感っていうと汚いけど当たっているかも)がします。だから次に進まざるを得ない。
やればやるほど、自分の目の前にある対象は広がっていくような感じがする。その「感じ」を失ったとき、「完結できてしまっている」研究者(もどき)が出来上がる。
ってな感じでしょうかね。分かってない?
takuya氏の場合は、その拡散の仕方が激しいような気もするけど。僕は、その拡散の程度を抑えようとしたんですけど、かえってつまらない感じがしてます。オレも拡散を好むタイプだったのかなぁ。
うん、なるほど。
ソリッド(見かけ上は)な「専門」の一歩外に出たところに対してはなんのとっかかりも持っていない人が多いのではないかなあといういら立ちは一方にある。それはまあいいとして、さてこの自分の拡散状態のなかで学生に向き合うというのはどういうことになるのだろう、という疑問だったわけですよ。上のコメントで書いたのは。
いまのところ院生を「持つ」ことからは免れていて、仕事としての「教える」ことに関しては、もっぱら初学者向けのドイツ語をいかに教えるかということにエネルギーを割いている。それはそれでいくらでも工夫の余地があって面白いんだけれども。
しかし院生相手に「教える」場合は、一方では拡散は不可欠だろうし、かつそれで「教える」というのはどういうことなのかなと。みなさんいろいろ試行錯誤してどうにかこうにかやっていらっしゃるんでしょうけど。
割り算・・・分かりやすい説明ですね。
フレーズの中で小節線を取っ払うとフレーズの中でテンポが行って戻るという拍節感が生じるように思います。
rubatoという言葉にrobという意味があるそうです。盗んだテンポをフレーズの中で返して帳尻を合わせるという風に教わりました。
釈迦に説法済みません。
はい。本来 rubare の過去分詞ですね。ちなみに、ご存知かと思いますが、関孝弘、ラーゴ・マリアンジェラ『イタリアの日常会話から学ぶ これで納得! よくわかる音楽用語の話』全音楽譜出版社 は、タイトル通り、元々のイタリア語から音楽用語のニュアンスを教えてくれる良書です。が、そこには rubato は扱われていないようです。
微細なルバートは、アドホックなものではなく、拍節の根本的な構成要素の一つだという視点からすると、特殊で臨時な表現としてのルバートという概念は、それ以外は均等だという誤解を招く点で、やや問題をはらんでいます。
そして、メトロノームは、加算でしかあり得ないわけです。
小節線を取っ払う、というのはどうなのでしょうか。肝心なことは、小節の中の拍と同様、フレーズの中の小節も伸縮する。それによってフレーズの中に場所を占める、ということだと思いますが。