メトロノームと呼ばれることになるものをオランダのウィンケルが発明したのが1812年、それを改良して拍・韻律とノモスを合した名称でメルツェルが特許を取ったのが1816年。この本質的になんとも単純な機械仕掛けで均等なパルスを発する器械が、その後の音楽を呪縛することになる。(それはヨーロッパの外、たとえばアメリカや日本でとりわけ著しい影響力を揮うことになる。)
ちょうど実用化されたメルツェルのメトロノームに、ベートーヴェンははしゃぎ、自分の作品にメトロノーム速度を書き入れる。しかしその表記はのちのち論議の的ともなった。ベートーヴェンがメトロノームに感動したのは、あくまでも意図したテンポを伝える手段としてであり、メトロノームに「合わせて」演奏などするものではないということも、彼ははっきりと書いている。
"Gar kein Metronom! Wer richtiges Gefühl hat, der braucht ihn nicht, und wer das nicht hat, dem nützt er doch nichts..." 「メトロノームは無しだ! ちゃんとした感覚のある奴なら、メトロノームは必要ない。感覚の無い奴なら、使っても意味がない。」 (Rostal and Ludwig, 1991, Ludwig van Beethoven: Die Sonaten für Klavier und Violine. ) Sylvio Krause, Das Probespiel Violine, Friedrich Hofmeister Verlag, 2001, S. 7 からの孫引き。
さて、メトロノームとは何の役に立つのだろう? どう役立てるべきものだろう?
- もちろんおおよそのテンポを知るには役立つ。
- テクニカルな練習曲で、難易によって途中で無意識にテンポが変わってしまわないようにチェックするため、アドホックにちょっと使う、というのもアリだろう。
それはちょうど、ウサギ跳びにとてもよく似ている。歯を食いしばって苦行に耐えることで、何か功徳を積んでいるかのような感覚に浸れるのだろう。文字通り「機械的」な、音楽とは無縁の作業でしかないのに。ウサギ跳びがスポーツや体力作りとは実は無関係で、むしろ害になるのと、実によく似ている。
かくして拍節感は育たず、生命を欠いた楽しくも何ともない「音楽」があちこちで生産される。この音楽的ゾンビたち、キョンシーたちには、いたるところで出くわす。本人は生きているつもりなのだが、実は「おまえはもう死んでいる」と言うべきなのだ。頼むからそんなものを聴かせないでほしい。
あなたの演奏がダメなのは、メトロノームに合わせているからこそなのだ。あるいは、メトロノーム的な拍節感しか持っていない、つまりは拍節感が無いからなのだ。そのことに、なぜ気づかないのか。いや、気づきたくないのだろう。音楽を忘れ、自己目的化した「訓練」。そこには一種の倒錯した快感があるであろうことは容易に想像がつく。自分はこんなにもまじめに一生懸命練習しているのだ、善行を積んでいるのだ、という満足感があるのだろう。それが決して「音楽」に資するものではないことは見ようとしない。(このことが分からない人たちには本当に分からないようだ。そこには明らかに心理的な問題がある。分かりたくないのだ。)
ダルクローズが拍節(ダルクローズはこの言葉を明らかに均等拍の意味で使っている)に敵意を剥き出していたこと、フルトヴェングラーが「歌」Gesang という言葉で要求していたこと(フルトヴェングラーが「法則」Gesetz という言葉を「歌」に近接させて使用していることは示唆的だ)は、あまり理解されているとは思えないが、ほぼ間違いなくこの問題にかかわっている。
必要なことは、拍節的なゆらぎを作り出し、ゆらぎをコントロールし、ゆらぎに乗ること、聴き手をそのゆらぎに乗せること、アンサンブルであれば互いのゆらぎをすり合わせること(「縦の線を合わせる」というのはこのこと以外ではない)、大きなアーチを、波を作り出すことだ。均等拍が基本で、ゆらぎはその香辛料、などではない。少なくともクラシックにおいて、ゆらぎは拍の本質に属するのだ。
「体育会系」と呼ばれるメンタリティと、ウサギ跳びはとてもよく合う(そもそも、「表の体育」がそれ自体「体育会的」なのだ。この点については、甲野善紀『表の体育 裏の体育』が非常に示唆に富む)。そして日本の大学オケの多くと、クラシック関係の一部の人たちもまた、とても体育会的だ。うっかり日本のそこらのアマオケなどに行くと、おまえは十分に死んでいないと言って怒られることになる。あるとき、ある若いヴィオラのゾンビは自信たっぷりに言った。「××さん、そこ、出るの早いです」(××にはぼくの名前が入る)。アウフタクトは早めに入って長めになる。それが、死体から見ると、たんに飛び込んでいるように思えるのだ。
(このことがぼくにとってショックだったのは、長いことまさか彼はゾンビではあるまいと思い込んでいたからだ。不明を恥じるしかない。いや、一般に優秀と目されるプレイヤーたちのほとんどがゾンビであるなどということはあるまいと思っていたのだ。このあたりで気づいたことは、現実はそうではないということだ。事態はそれほどまでに深刻なのだ。)
ウサギ跳びの無意味さが認識されるようになったのも、そう古いことではない。「メトロノームに合わせる」練習の問題性が広く認識されるようになるのはいつのことだろうか。



うさぎ跳びってのは面白い着眼点ですが、
「体育会系」出身の私が思うには、
「規則性」への盲従的姿勢(ズレがないとか、いつも同じってのが好き)と、「みんなが合わせている」ということへの主体性なき安心感(みんながやっているから正しい。自分だけはみ出ているのはおかしい)が合体したものなんじゃないでしょうか。
「シラバス通りにやるのがいい授業」ってのにちょっと似てるような気も。みんなやってるんだから、僕も合わせましょう。規則的にね。
うん。つまりワザそのもの、芸そのものを自分自身で反省的に捉えるってことがないということです。あるいは、自分のカラダを苛めること自体がサドかつマゾ的な快感になっていて、カラダとの対話がないということです。
もっとも、ウサギ跳びは体を壊すだけだから本人の勝手でいいのですが、メトロノームの場合、そういう「音楽」でもってステージに出てきてしまう人が生じてくるから、よりたちが悪いと言うべきかもしれません。
メトロノームに合わせて演奏したことがないから(ってか、そもそも「演奏」と呼んで良いようなことができない)よくわからないんだけど、メトロノームに合わせるってのは、それほど辛い、マゾ的な作業なのですか? うさぎ跳びは確かに辛い。それは知ってますが(まだ練習でやっていた世代だから)。
うん、それほど辛いと思わない人がたくさんいるから問題なのですね。それでも、「自分は何かやっている、がんばっている」という充実感(!)はあるのだと思いますよ。
うーむ。
そうすると、メトロノームどころかピアノも電気(?)もない環境で純正律の曲を歌っている私は…サドでもマゾでもないのですね。安心しましたm(__)m
って、そういう話題ではなかったですね、板汚しお許しください…m(__)m
jiwa さん
コーラスの場合、均等拍病はあまり顕著に出ませんね。でもアカペラでも平均率的「絶対音感」でやってしまっているところ/人は少なくないようです。お互いのハーモニーを楽しむものなのでしょうに。