ぼくの勤め先の大学には、以前から「英語の××」(××の部分には大学の略称が入る)というスローガンというか宣伝コピーがあって、ずっと恥ずかしい思いをしている。アメリカ・プロテスタント系のこの学校、大昔には英語であらゆる授業をやってしまうようなことをやっていた 時代もあったらしく、その当時にはこのスローガンというか売り文句にもそれなりの意味があったかもしれないとも思う。
しかし、今時、当たり前に英語ができる連中がこんなスローガンを掲げるはずなどないのであって、つまりは、英語できません、と宣言しているようなものではないか。たとえばオックスフォードやケンブリッジやプリンストンやUCLA、は当たり前すぎるか、東大や京大でも、北京大やFUベルリンでもいい、こんなスローガンがありえないことは、ちょっと考えれば明らかだろう。その恥ずかしさに気づかないところが情けない。
いやもちろん、ものすごくできる人は教員にも学生にもいる。でもそういう人たちはこんなスローガンとは関係ないところにいるはずだ。
結局、このスローガンが訴求力を持ちうるとすれば、それはかなり学力ないし知力の低い高校生やその親に対してでしかありえないのだ。したがってそれ自体が「低さ」の再生産に資するものでしかない。



このスローガンが訴求力を持ち得る学力層を主たるターゲットにしている大学、という現実に合致してきているんじゃないですかね。ヘンな青田買いにも熱心だし。だとしたら、かなり効力あるスローガンかも。
うーむ、なるほど。
しかし、「できる」と言っている言葉それ自体が「できない」ことを証している、この言葉そのものの空虚さは、やっぱり堪え難いものがあります。
「英語ができるようになりますよ」なんて、
なんか、予備校の看板みたいな響きですね。
「できない君たちのことも見捨てないぞ! 僕らも苦手だから、一緒に頑張ろう!」ってな感じで。励まされる受験生も多いんじゃないですか。
大学の売り文句としてはあまりにアナクロ。