日本のワイン業界にかかわっている人たちの中で、フランス語の分かる人の率は比較的高そうだが、ドイツ語はどうもダメなんじゃないかなという印象がある。(スロヴェニア語は言わずもがな。)
ワイン関連資格試験(ソムリエ/ワインアドバイザー/ワインエキスパート)の出題傾向でも、どうやらドイツ関連だけはかなり偏っていたようで、「ドイツに関する出題は長年、歴史と畑名(しかも日本語訳まで)という他国ではありえない形式で行われ」てきたという(『ワインの合格力 2006』美術出版社による。リンク先は2007年版)。実際、Sonnenuhr という畑の名前を訳させる(正解は「日時計」)ような、ばかばかしいと言えばばかばかしい問題が出題されたりしていたようだ。どちらかというとドイツ語をよく知らない人が、一生懸命それだけ覚え込んで解答するようなタイプの問題だと言える(解く側が当たり前にドイツ語の分かっている人ならば、問題として成立しない)。ただし近年はもう少しバランスのとれた問題になってきているという。
たぶんそうした事情の影響もあるのだろう、モーゼルワインというと、あちこちで話の種にされているのが、ベルンカステルの Doctor という畑。
「今は、廃墟になっている崖上のランズフート城で、14世紀の半ば、トリアーの大司教ベームント2世が重病にかかって、余命はないといわれた。ところが、お見舞いに届けられたワインを飲み、一命を長らえたので、そのワインの生まれた葡萄畑に『ドクトール(医者)』という名前が与えられたという」
と、ドイツワイン広報センターが出している有坂芙美子『ドイツワインアトラス』1994年にも書いてある。Landshut の音訳はランツフートのほうが妥当だと思うが、それはまあいい。この話、ドイツワインって語るべきネタがそんなにないのだろうかと思うくらい、日本語でドイツワインの話となるといつでも、いたるところで、語られている。ドイツ語版 Wikipedia (Bernkasteler Doctor の項)がおそらく正当にも註釈しているように、これはどちらかというと「伝説」、神話の類に属する。同所の記述によれば、この畑が文献上最初に現れるのは1677年のことだという。14世紀に何があったかなんて、確実なこととしては分からないし、Doctor という名前の起こりも、確かなところは闇の中なのだ。19世紀後半から20世紀初頭、イギリスのエドワード7世が、ここのワインを「薬」として飲んでいた(ただの呑んべじゃねーのか?)というのは事実らしい。
しかしそういう伝説が「ある」のは事実。問題はその先で、誰が思いついてしまったのか、日本では、この「医者」畑を、隣接する Graben という畑の名前とペアにして語るのが、一つのパターンになっている。それもおそらくは誤解にもとづいて。
大司教さまの病気を治してしまったから Doctor なんです。で、その隣の畑がなんと「墓場」という名前。ブラックですねえ、ははは、というのがそのパターン。OAGハウスの料理長さんもそういうふうに書いてしまっているし、「ワインのはじめかたDS
」にも出てくる。ネット上でも、Bernkastel Graben で検索をかけてみると、出てくる日本語サイトは、モーゼルワインのたんなるリストでも、Graben という畑名の横に、律儀にというか、ほとんど必ず、「墓」と書かれている。
しかし言われている Graben という畑の名前、墓ではないはず。ドイツ語で墓はクラープ Grab。複数ならグレーバー Gräber。グラーベンは、形は似ているが、溝とか、海溝とか、城の堀とか、考古学的な発掘で掘り返されたところとかいった意味。そしてそういう谷状の地形のところの地名として、ドイツ語圏ではあちこちにありふれて見られる。
だいたい、ワインに「墓」なんて名前付けて売るわけないじゃん(もっとも、スロヴェニアには「ゴキブリ」という名前のワインがあったわけだが...)。
そう言えば、かなり以前、『地球の歩き方 ドイツ』に早川東三さんがワイン関係のコラムを書いていて、その中で、やはりモーゼル、クレーフのナックトアルシュ Nacktarsch を紹介していらした。裸の尻。ワインケラーにもぐりこんでワインを飲んでしまっていた子どもたちを発見したお母さんが、お尻ぺんぺんの罰を与えたというストーリーとエチケット絵柄。ここにラベルコレクションがある。あれ? こどもの尻を叩いているのはお母さんだったような気がするが、みんなおやじさんだな。神戸コープがこれの手頃な価格のやつを販売していて、結構飲んでいた覚えがあるが、最近は見ない。で、まあ、これも、名前と絵柄のインパクトで売った面があるけれども、「墓」はないだろうと思う、墓は。
追記:その後調べ直していたら、1998年のソムリエ試験そのものに Graben の日本語訳を問う問題が出ていたらしい。うーむ。まずいのではないかな、それは。初出がこれかどうか分からないが、広めた張本人はこれらしい。



ドイツといえばビール、とか、
ドイツワインといえば白、といった、
極めて定型化したイメージが、ドイツワインの知名度を下げているような
気がします。実際、ドイツワインの赤にはあまりお目にかからないし。
(楽天市場には出ているようですが。)
加えてドイツ語の壁も確かにあるようですね。
Graben=墓には笑いました。確かめもしないで広まる話の典型ですねぇ。
ドイツの赤について言えば、近年涙ぐましい(?)努力の末、よいものが出てきているようですが、かつては見るべきものがあまりなかったし、現在でも生産の絶対量が小さいことは事実でしょう。でも「ドイツといえば白」で片付けるのではなくて、白の中にもいろいろあるし、赤も知りたいですね。
ドイツ語の壁は、ワイン関連では強く感じます。
しかしこの手のいささかずれたストーリーが作り出されて、それが後日本語だけの閉じた世界のなかで流通し増殖していく。よくある現象のような気もします。拍節をめぐるディスクールしかり、後舌高母音の記述しかり。この「墓」も典型的な例と言えるかもしれません。