
シャンボール城。Wikipedia より
初級か初級に毛の生えたぐらいのクラスだったはずだが、日本でもちょこちょこフランス語はかじっていたし、ドイツへ行ってからもASSIMIL(当時はまだカセットテープだ)などを使って少しは自分で勉強して、ときどきパリにも出かけていたから、先生にはそれなりにデキると見なされていたようだった。
そういえば、フランス語の期末テストで、あるドイツ人学生のあまりに大胆なカンニングに唖然とした。いや、ほとんど感動した。180度首を捩じって、真後ろの学生の答案を見ていたのだ。それがまた咎められもしなかった。日本の例えば今の勤務校では考えられない。
で、フランス語の先生(美しい人だった)に、あなたはデキるからフランスへ行ってフランス語やったらいいわよ、と言われてその気になり(まるで野原しんのすけである、うっほほーい)、二年間のドイツ滞在の最後は、ちょうど再統一に湧くドイツをさっさと離れて、フランスはアンボワーズ(ダ・ヴィンチの終の住み処だ)のフランス語学校へひと月行った。ホームステイ。
ヨーロッパの列車の多くは、自転車といっしょに乗ることができるし、自転車を別送することもできる。アンボワーズに行く直前、ボンの駅から自転車を送っておいた。それがなかなか到着しなくてやきもきしたが、3,4日して、駅からあんたの自転車が着いたって連絡があったよ、とステイ先の主人に教えられて、駅まで取りに行った。その後は、通学を徒歩から自転車に切り替えた。
ステイ先のホストは年配の夫婦。かなり大きな離れに、カナダから来た老夫婦と、スイスのドイツ語圏から来た銀行員(スイスで銀行というのがあまりに絵に描いたようでおかしかった)と、僕の4人が住み込んだ。学校ではみんな別のクラスだった。カナダ人のおじさまは、一向に上達せず、奥さんの方だけ上のクラスに行ってしまって腐っていた。
ボンで学生寮に住む前、ゲッティンゲンでの宿は、単におばあちゃんの家の屋根裏部屋を借りているという感じで、食事は一切出なかったが、ここアンボワーズでは朝食と夕食が賄われた。考えてみれば、いや、考えるまでもなく、当たり前なことに、毎食がフランス料理だった。とくに夕食時は学んだフランス語を試すよい機会だった。夕食はいつもれっきとしたコース料理になっていて、一皿一皿、マダムがキッチンから大皿で運んできてくださる。そのつど、ぼくらはまるで「おすわり、待て」と命ぜられたワンコのように椅子にかしこまり、マダムが「お取りなさい Servez-vous ! 」という一言を発してくれるまで待つのだった。公安関係に勤めていてすでに退職したというドゴールを少し膨らませたような旦那の方は、夕食のたびに、文字通りの地下室からどこぞのワインを持って来て、ぼくらに飲ませてくれた。そもそもこのロワール河の一帯も、フランスのワイン名産地の一つだ。当時のぼくはただどれもおいしいということしか分からなかった。今ならもう少し「違いが分かる」(この名コピーもそろそろ死語か)ような気がする。アーティチョークの味も、ラディッシュは塩を付けて丸かじりにするのが旨い(当時の日本では、なぜか薄くスライスして彩りにサラダに入れるという食べ方しか知られていなかった)ということも、ここで覚えた。
途中で、このクラスはちょっと人数が多いから、あんた、上のクラスに移らないか、と言われたが、拒否した。先生も良かったし、クラスの雰囲気が好きだったし、何よりペアを組まされていたイギリス人の女の子がとてもチャーミングだったことが大きい。もっとも、彼女の方は結局なんとも思っていなかったようだが...。
海外青年協力隊でこれからアフリカに行くので、その前にここでフランス語研修を受けさせられているという日本人男性3人組がいた。役所を辞めて来ていたり、その志には敬服した。その他に案外日本人は少なかった。その後勤めることになる(もちろんそのときはそうなることなど知る由もなかった)関西の大学の仏文科の女子学生が一人いた。
バスでの遠足があった。シャンボール城と、その二重螺旋階段だけがかすかに記憶に残っている。
学校には、コンピュータールームがあって、ソフトのフロッピーを借り出して文法などの練習をすることができた。今では当たり前(ではないところもまだあるが...)のことだが、なかなか先進的だったわけだ。なるほど、コンピューターではこんなことができるのか、とその時に思った。(当時それまで、ぼくはコンピューターにさわったこともなかった。初めて自分でMacを買ったのはその5年ほどあとのことだ。)
コースの最後に打ち上げパーティのようなものがあって、クラスの担当だった女性の先生としばし話し込んだ。あなたはもう自分の言いたいことは何でも言えるでしょう?──いいえ、自分の「言えることが言える」だけであって、「言いたいことが言える」わけではありません。彼女はちょっと悲しそうな顔をしていたが、外国語というのはどこまで行ってもそういうものだと思う(いや、母語もそうなのかもしれない)。教師がどんなにがんばっても、成果は学生次第なんですよね、なんてことも言ったら、彼女はさらに悲しそうな顔をした。でもそれは、やがてドイツ語教師になるであろう自分を見据えた上での実感だった。もちろん、教師はてきとーにやっていていいということではない。最善を尽くした上で、最終的には教師にはどうしようもない部分があるという、当たり前といえば当たり前のことだ。彼女のフランス語の授業に、悪い印象は一つもない。
再統一のドイツにすぐには戻らなかった。まるで商売根性がなかったのだ(僕のいたライン河畔のあたりでは、そもそもドイツ人たちが再統一に冷淡だったということもある)。日本でお世話になっていた独文科のM先生などは、わざわざ再統一直前の東ドイツへいらしていたらしい。ぼくはアンボワーズからいったんパリに出て、ドイツではなく、タルゴ号でスペインへ行った。フランス語コースの打ち上げパーティで、これからスペインへ行くつもりなんだ、と、スペイン人の受講生の女の子たち相手に片言のスペイン語を使ったら、ふん、あんたのスペイン語、まあまあね、と鼻であしらわれた。あとで『ジュークボックスについての試み』を読んで知ったことだが、ちょうどこの頃、ハントケも、にぎやかなドイツを背に、スペインをうろついていたらしい。
スペイン行きの寝台列車のことは以前に少し書いた。マドリードへ行き、グラナダへ行き、海岸を少し回って、それからようやくドイツに戻って、すぐに日本に帰国した。



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