
ゲオルギアデス『音楽と言語』
(講談社学術文庫、1994年)
ゲオルギアデス(1907-77)はギリシャのアテネ出身で、ミュンヘン大学で長く音楽学講座主任教授の職にあった人。原著は1954年の出版。木村敏の翻訳で、早くから日本でも知られ、現在では文庫本で読める。 ここではその第8章「ドイツ語と音楽」のみを取り上げる。(ページは邦訳書のページ)
たとえば、シュッツがドイツ語に合わせて音楽を形成していく様子の指摘は見事だ。
ゲオルギアデスが指摘するのは、まず、ドイツ語は、verehren (不定詞)だろうが、ich verehere (私は敬う)だろうが、ich verehrte (私は敬った)だろうが wir vereheren (私たちは敬った)だろうが、die Verehrung (尊敬、1格)だろうが、der Verehrung (尊敬、2・3格)だろうが、verehren なら verehren、その変化形と派生語まで含めてアクセントの場所が一定(eh の上)で、アクセントがある単語の要素としてしっかり結びついている事実(それ以前の時代のラテン語との違い)だ。それをゲオルギアデスは、ドイツ語では「アクセントが意味と固く結びついている」と言っている。(108ページ以下)
%%%ここから余談%%%
しかしゲオルギアデスはこれだけのことを、「ドイツ語においては、語られた言葉とその意味は余すところなく一致する」とか、ドイツ語では「言語と表現、対象化と自我、客体性と主体性の同一化」が促されるとか、「ドイツ語は、対象的なものはただ内面的なものの媒介を通じてのみ眺められ、外界はそれぞれ内界を通じてのみ観られうるといった人間的態度と結びついている」(108-109ページ)などと言ってしまう。今から見ると、あまりに大時代的な「哲学的」レトリックに堕しているように思える。このような言い回しは、一種の比喩として分からないでもないけれど、間違いなく飛躍している。
原著出版年代を考え、この飛躍自体の意味を読み取って、たとえば戦後復興期のドイツのある種のナショナリズム、そしてドイツ人ではないからこそそれに乗っかっていたゲオルギアデス、といった構図を読み取ることももしかしたら可能かもしれない。また当時、ドイツで知られていた言語学がさほど洗練されたものではなかったことも考えあわせておくべきかもしれない。
(それをまた木村敏は「訳者あとがき」で「音楽といわれ、言語と呼ばれている現象形態の背後に、その現象の「意味方向」を決定するものとしての人間的精神性を発見しようとすることが、本書の[...]真の意図にほかならない。」などと書いてしまう始末。あの木村先生にしてこうなのだ。いったいこれのどこが「現象学」なのだろう。)
たぶん、自分の音楽のためにこの本を読む人は、こういうところに引っ掛かってはいけないのだ。ともかくそこらへんは今はおいておこう。
%%%ここまで余談%%%
単語によって派生語・派生形を含めてアクセント位置が一定していることと並んでゲオルギアデスが指摘するのは、ドイツ語の基本語彙が語頭にアクセントを持っており、それによって〈強-弱〉のリズムが形作られること(「ドイツ語の言葉は単純な形の場合には[...]必然的にすべてアクセントのある音節でもって始まり、いわば爆発的に表明され、つねに無から新たに作り出される」110ページ)、さらにその前に接頭辞や、接続詞や人称代名詞が来ることで、逆の〈弱-強〉もパターンとして生じるということだ。
「これを言葉に置き移して考えてみると、そこには近代の音楽にみられるリズム形態の二つの原形あるいは基本動機といったようなもの、つまり強弱および弱強の二つが与えられていることになる。たとえば、Leben とか verjüngt とかのように。音楽では前者を下拍 (Auftakt)、後者を上拍 (Auftakt) と呼んでいるが、この二つのリズム要素がここに新たな重要性をおび、意味を充当されることになったのである。そして音楽の構造も、それに応じて新しい形成と新しい意義を獲得するようになった。」(110-111ページ)
ドイツ語とともに近代の「古典」音楽が形成されていく様子について、ゲオルギアデスは例としてシュッツの『マタイ受難曲』の一節を引く(図A)。

danket und brachs
ここでdanket の dan と brachs の bra にアクセントがあり、これをシュッツは
|♪♪8部休符♪|♪8部休符
という音型に当てはめている。(und がアウフタクトに来る)
「このような言葉に即した重点配分、下拍と上拍とのこのような結合は、シュッツの場合、深い意味をもったものとなっており、このリズムは一種の拘束力をおびたものとなっている。そして実際、このようなリズムは、その印象的な響きのためにその後独立した生命を与えられ、純器楽風音楽を豊かなものにする端緒も開くことになった。」(111ページ)
鮮やかな例示と言うべきだろう。つまるところ、ここでゲオルギアデスは「ドイツ語のアクセント構造からの拍節の誕生」に立会っているのだ。
ゲオルギアデスがこのようなリズムによって豊かになった「純器楽」の例として引いているのは、「レオノーレ」序曲第三番冒頭の c-e g-a という主題(図B)。ところがまた「(この主題は)ドイツ語の中にみずからを現わしている精神的経験を前提としてしか考えられない。下拍と上拍がここでは明らかに重大な意味を帯びている」(111-112ページ)と来る。この文章の後半はよいのだが、前半がなんとも困る。なぜ「ドイツ語の中にみずからを現わしている精神的経験」などと言わなければならないのだろう。「ドイツ語特有のアクセント構造を前提としてしか考えられない。下拍と上拍がここでは明らかに重大な意味を帯びている」でいいではないか。
ドイツ語と近代西洋音楽つまりクラシックの拍節構造との強い結びつきは十分に明らかにされていると言っていいだろう。しかしまた、語の、あるいは拍の「強弱」とは何なのか、それは音楽上のデュナーミクとどのような関係に立つのか、ゲオルギアデスは十分に考えることができなかった。 こんなわけで、ゲオルギアデスの『音楽と言語』は、時代掛かった哲学的(?)語彙のために、また、拍節の本質に迫り切れていないために、どこかブーツの上から水虫を掻いているような感じもあるけれども、ドイツ語と古典派以降の拍節の切っても切れない関係を鮮明に描き出しているだけでも、名著なのだ。…多分名著なのだと思う。
読みどころを間違えなければ、クラシックをやる誰もが読んでおいてよい本だと思う。



おお、4カ月ぶりの復活ですか。死んだとは思ってなかったけど。
クラシック素人の僕には、余談の部分、なかなか興味深かったです。抽象に始まって、具体的なものをそこから導き出し、再びその抽象化に帰って行くという、神学にもよく見られる(というか、神学のせい?)ドイツ的論理運びの典型を見るような気がしました。
tsujigakuさん、コメントどうも。(スパム扱いになっていたのを解除しました(笑)。)
生きてますよお。どうにか。
確かに神学かもしれませんね、あれは。