先日、コンサートを聴きに行った。大阪の真ん中の、残響の多い中規模ホール。わりあい上手な(残響に助けられている部分も多々あったが)アマオケで、短い序曲のあと、モーツァルトのピアノ協奏曲。休憩を挟んでピアノ三重奏という変わったプログラム。どうやらピアニストの主催で、オケと指揮者を雇って開いたらしい。
かなり年配の女性のピアノは悲惨の一言に尽きた。それはモーツァルトでも何でもなかった。山のようなミスタッチは、年齢のせいかもしれない。どちらかというと些細な問題だ。問題なのは、拍節感を欠いた、完全にメトロノーム的なメトリック、フレージングはまるで考えていないとしか思えず、タッチにはまるでニュアンスがないこと、音楽に即したブレスがまったくないこと。これらは、このピアニストがキャリアを積みはじめた大昔から、変わっていないはずだ。要するに最初からまるで音楽になっていなかったということだ。聴いていて、苦痛でしかなかった。
プログラム・パンフに書かれたピアニストの経歴には、やたらと「後進を指導」というフレーズが出てくる。いいのだろうか、こんな「音楽」をしている人が「後進」の「指導」などしてしまって。
しかしそれはたぶん、彼女の個人的な責に帰する問題ではない。要するに、日本の音楽専門教育の現場で、音楽の本当の必須要件をきちんと網羅した教育や言説(理論)が、スタンダードとしていまだに確立していないのだろうと考えることができる。肝心な部分が個々の奏者のセンスや才能に任されて、肝心な部分が抜け落ちたまま平気で「プロ」になってしまう人が、昔から今にいたるまで、後を絶たないということだ。
何が音楽を音楽たらしめているのかが、おそらく日本だけのことではなく、未だに把握されていない。きちんと言葉にされていない。ヘーゲル風に言えばbegreifenされていない。だから教えられない。だから感覚的にはしっかり身につけ、自ら演奏することのできた指揮者(FとかCとか)や演奏家が神格化される。だから「伝統」のなかで意識的な教育や言葉を媒介とせずにやってきたウィーンのような街が神話化される(もちろんこういった演奏家や都市のアウラには、ぼくがいまここで考えていることに尽きるものではなく、それ以外の要素もいろいろあることだろう)。だからまるで的外れな「絶対音感」のような観念がもてはやされたりする。だからこそ民族音楽学者の小島美子は西洋音楽は日本人には向かないなどと断言してしまう(それぞれの民族が長年にわたって楽しんできた音楽の内側に入りこめば、楽しくないはずがない。だから小島の断言は、彼女自身が参入し損ねたことを語っているに過ぎない。)だから史上まれにみるバランスの上に音楽を体で知っていた19世紀ヨーロッパのあと、ヨーロッパ自体でも、音楽は自らが何ものであるかを忘れ、袋小路に入っていく。
逆に言うと、何が音楽を音楽たらしめるものなのか、最低限の要件は、ぼくは「教える」ことが可能だと思っている。それについては、改めて少しずつ書いていくことになるだろう。
プログラム後半、ピアノ三重奏のヴァイオリンは音大を出たての女の子。弓元で肘の下った、「日本の音大の女の子」ふうのボウイングで表現力は限られていたが、キレイには弾いていた。チェロは中年の男性奏者。曲は初期ロマン派の代表的なピアノ三重奏曲で、ピアノパートは特に難しいことで知られる。唯一感動すべきかと思えたのは、ぼろぼろめろめろのピアノにも拘わらず、止まることもなくこの4楽章の大曲を弾き通したことだ。それは、考えてみれば確かにすごいことだと思う。この点では、3人ともしたたかな「プロ」であった。



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