前の「日本のことも知らないのに〜」という紋切り型のバリエーションに「外国のことを理解するにはまず日本のことを知らなければならない」というのがあります。こいつも、つい口にしてしまう人が実に多いですね。もちろんこのセリフも、先のものと同断で、「日本のことを知る」ことを促すよりは、「外国」に近づくことを禁ずる機能を果たしている場合が大部分です。考えてみれば、なんとも不思議な断定です。なぜ「まず」なのでしょう。

リュブリャーナの青空市場にて
そもそも、これは逆だと、僕は思っています。「日本をつかまえるためには他所のことを知らなければならない」ではないのか、と。比較の対象がなければ、なぜあることが日本固有のものだと判断できるのでしょう。(もちろん、母語すらおぼつかない、言語能力のない人が、別の言語を学ぶのは大変なことだろうというようなことは言えますが、それほどのレベルの話は今は措きます。また、こうした「できていないことを〈禁ずる〉」言葉は、できていないことがその気になればできるかのような幻想を維持する働きもあるという点で、精神分析「的」には、インセストタブーの論理とパラレルなのですが、そんな話に立ち入るのもやめておきましょう。)「日本をつかまえるためには他所のことを知らなければならない」。だから僕は学生たちにはよく「とっとと〈あっち〉へ行っちゃいな」と言っています。
「異文化理解」という語句もよく話題にされますが、僕はこの言葉にも違和を抱いています。とりわけ、大学のいわゆる第二外国語になっているような言語の学習を促す文句として使われる場合に、ある種の広告コピーとしての役割を果たしていること(その機能ぶりが問題なのですが)は認めつつも、首をかしげます。先に書いた通り、国境以外にもさまざまな境界線や断絶線が縦横に交差しあいながら走っているわけで、たとえば日本国内でわれわれのすぐ隣にいる人のことが「理解」できているかということもかなり疑わしい。(日本人同士なんだから分かりあえるはずだ、なんてジョーダンじゃありません。僕が理解できない「日本人」は五万といます。それは単に僕の理解する能力の不足だけの問題ではないはずです。)そんななかで、国境だけを特権化するのはへんです。そして理解ということが未知のものを既知のものに還元していく、あるいは結びつけていくことだとすれば、「異文化」と「理解」というのは相いれないはずです。極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、「理解」ということがありうるとすれば、「理解」した瞬間、それはあなたにとって「異」文化ではなくなっているはずです。そしてまたその瞬間、あなた自身こそが変化しているはずなのです。だとすると、「異文化理解」というのは、スケベなお触りをちょっとやって、「理解」の手前で引き返してくることの別称なのではないか。
喧伝される「異文化理解」に対しては、僕は「同じ人間の生活」がまず注視されるべきだろうと考えています。そしてその中の微妙な差異が。
「異文化」の決定的な差異、愉しむべき差異は、茶道や歌舞伎や相撲などの、突出した部分にはありません。これらは言ってみれば容易にパッケージ化でき、単体で「売る/楽しむ」ことができるものばかりです。(また、「外」のことを知らなくても、一番容易に、どうやら「日本に独特の」ものらしい、と思える部分です。)しかし決定的な差異は、日常の微細な部分にあります。もし「異文化を愉しむ」という言い方がゆるされるとするなら、愉しむべきは、そうした微細な部分にこそあるのです。異国での生活に浸り、そうした差異を感知していくこと。風土、気候や歴史と、そうしたわずかな差異が、絡み合って存在している様子に敏感になること。(も少し続く)



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