この時期、こっち(スロヴェニア北東部)に来たのは、プトゥイのクレント kurent を見るためでもあった。カーニヴァルの時期の、プトゥイ特有の祭。でもまず町のこと。
城からの眺め。ドラヴァ川は町の南で大きく広がり、プトゥイ湖の名で呼ばれる。
プトゥイはやはりドラヴァ川沿い、マリボルの約26キロ下流にあたる。
22日水曜、マリボルから日帰りでプトゥイ Ptuj へ行った。列車は一時間に一本程度。まっすぐ南に走ってプラガルスコ Pragarsko を通り、そこで進行方向を変えてまっすぐ東に向かってプトゥイに着く。一部の列車はプラガルスコ乗り換えになる。今回は直通でマリボル12:25発、プトゥイ13:19着。バスのほうが便がいいかもしれない。
マリボルの駅のこんな店で、ケバップほどの大きさの「チーズバーガー」を買って乗り込む。
プトゥイはスロヴェニアでももっとも古い街と言われる。ドイツ名ペッタウ Pettau。
ドラヴァ川右岸にローマ軍の前哨基地が置かれ、やがて左岸がローマ人の街ポエトウィオ Poetovio となる。1世紀には、パンノニアとノリクムを結ぶ要衝に位置して、現在のスロヴェニアの領域で最大の都市だった。2、3世紀にはローマ人たちのミトラ信仰の中心地で、数多くの関連品や遺構が出土している。中世にはドラヴァ川を利用した交易で栄え、13世紀には手工業と商業で隣のマリボルと地位を争う。15世紀にはマジャール人の支配下にあったが、幾度にもわたるトルコ軍の襲撃には耐えた。
19世紀半ば、ウィーンからの南部鉄道はプトゥイを外してマリボルを通り、以来大きな発展はなかった。第一次大戦まで、マジョリティはドイツ人だった。(以上は大部分、Steve Fallon の簡潔な記述に従う。)

16世紀に建てられた市の塔 Mestni stolp の基部に19世紀初頭にはめ込まれたローマ時代の遺品。他にもいくつもある。
城山の上の、12世紀にさかのぼるプトゥイ城。内庭に面して三層のアーケードになっている部分は16世紀後半の建築。
Slovenski trg の居心地のいい Café Bo。
ホテル・ミトラ。中世からのさまざまな建築が並ぶプレシェレン通り Prešernova ulica の中では比較的新しく、19世紀末から20世紀初頭にかけて大幅に改築されている。奥に見えるのは市の塔 Mestni stolp。



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