
「私家版日本語訳」の『ケケッツとプリサンク』がようやく出来上がった。ほかのことの合間にやっていたからでもあるけれど、この薄い絵本に4日もかかってしまった。まだまだスロヴェニア語の力が足りない。早速、夜寝る前の子供に読み聞かせる。それなりに面白かったらしい。
ドイツ語や英語からの翻訳の仕事はいくつかして、出版もしてきたけれど、考えてみると、「私家版」とは言え、絵本の翻訳というのは、この前の『ケケッツとベダネッツ』と今度のこれが初めてだ。そしてすぐに朗読することで、これまでの仕事とは異なる問題を感じ取ることができた。読み上げやすく、聞きやすくなければならない。頭で考えて、文字としての翻訳を iBook で打ち込んでいるだけのときとはかなり違うことが、声に出してみた場合には感じ取れる。
日本でかなり名の知られた女性のエッセイスト・作家の翻訳した絵本を見たことがある。その通常のレベルを超えて生硬な日本語にはびっくりしたのだった。もちろん逆に、絵本を多く手がけておられる翻訳家の方たちの仕事の巧みさにも改めて気づく。
これまでの「純文学」や、理論書や実用書の翻訳のわずかな経験では、原文自体の硬さをあえてそのまま移す、というようなケースもあるにはあるけれど、それなりに日本語としてのクオリティに気をつけてはきたつもりだった。当然ながら昔の仕事のほうが硬く、最近のほうが少しはマシになってきたかなという感触はあった。それでも、自分で日本語に移したものをただちに読み上げ、聞かせるという作業を初めてしてみて、それでまだまだ「甘かった」かなと気づいた。
凡庸な日本語にすればいいというものでもない。ベンヤミンなどが考えていたように、翻訳が、翻訳先の言語の幅を押し広げるということもある。文学ではことにそうだ。またもちろん、朗読というのはまた特別な技術であって、少々厄介なテクストであっても巧みに読み上げる技というのもあるのだろう。また、技術書や実用書や理論書であれば、さすがに絵本ほど気にしなくてもいいことはいいかもしれない。
ところで、iTunes Music Store でも、「オーディオブック」というのが一つの「ジャンル」になっている。日本版では、聞かせる話術の落語が出てくるのは当然として、外国語学習素材が多いようだが、US版では、文学作品の朗読なども多くなるようだ。他の国をあまり知らないのでまたドイツの話だけれど、ドイツの書店やCDショップでは文学作品の朗読CDがやたらに出ていて、どう見ても日本よりはるかに多い。作家自身の朗読もあるし、手だれの俳優によるものもある。子供向けの聴く絵本も多い。そういう「朗読の文化」が、日本では比較的薄いような気がする。朗読するということ、そしてそれを「聴く」ということ。もしかしてわれわれは「聴く」ことも下手なのではないだろうか。(われわれ、というのはおよそ範囲の曖昧な言い方だが。)
この話は色々なところに結びつきそうだけれど、とりあえず、自分の翻訳の仕事では、そういう視点からも気をつけていく必要があるなと思ったのだった。



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