いや、タイトルのこれはただ村上春樹の短編に出てくる「冗談」。作品の中で、言った男がその新婚の妻に黙殺されているぐらいだから、そんなものを僕が食べたわけもないし(そもそもいったいどうやって作るんだ?)、ましてスロヴェニアの名物なんかではない。むしろ逆で、彼らはこの「脱臭剤」を知らないのだ。
この金曜から1月まで、リュブリャーナ大学の3年生の「日本文学」の授業を引き受けることになって、翻訳などを通じてこちらでも人気があるようだし、日本語を学んで日の浅い学生にもそれほど厄介な表現は出てこないだろうし、現代日本の最も重要な作家の一人であることは間違いないしということで村上春樹の短編を読ませることにしたのだ。時期が妙なのは、この期間日本に行かれるB先生の代役だからだ。
まだそれほどすらすらと読める人たちではないから、少しずつ。「論じる」のはとりあえず後回しにして、疑問に思われるところなどを挙げてもらってあーだこーだ言っていく。この「パン屋再襲撃」は、「状況存在」とか「共同認識」とか、ところどころ変に硬い疑似哲学的な言い回しが使われていて、分かりにくいようだった。
その中で、まったく日常的な単語なのに彼らが首を傾げたのが「脱臭剤」。初めて気がついたのだけれど、そういや、こちらでは冷蔵庫の脱臭剤は見ない。体臭に対するデオドラントというのはもちろんあるけれど、あるいは芳香剤の類いはけっこういろいろ売っているけれど、日本のようにどの家の冷蔵庫にも脱臭剤が入っているという状況は想像がつかないらしい。(ドイツではどうだっただろう? よく覚えていないけれど、そういえばやっぱりなかったかもしれない。)
日本だと、家庭でよく魚も食べるから、それで脱臭剤が使われるのかもしれないね、と言ったら、学生たちは納得していたけれど、本当はどうなんだろう。魚…で彼らが納得してしまうのは、ヨーロッパでは、魚は臭いものという固定観念があるからで、それを分かっていて僕はそう言ったのだ。日本のように鮮魚の流通は発達していない。それでも、リュブリャーナの市場の魚屋には、案外新鮮ないいものが入っているのだが、リュブリャニッツァ川に面した半地下の半ば閉じられた空間に積もり積もった匂いには確かにかなりのものがある。でも日本で暮らしてきたわれわれは、魚がそんなに臭〜いものであるという観念はない。してみると逆に、冷蔵庫の脱臭剤、日本でだって、実は無くてもそんなに困らないものなのかもしれない。(そういうものはよくある。この話だけからでは少し飛躍しすぎかもしれないが、近年の日本でよく言われるところの「異文化理解」なるものにもし意味があるとするなら、その第一のポイントは、自分のところの当たり前が当たり前でないことに気づくということ、自分のところの「文化」を「異文化」として眺める視線を獲得することにこそあるはずなのだ。)




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