ピランはアドリア海の奥に突き出した岬に造られた街。三方を海に囲まれた古い町並みはぎっしりと建て込んで、大波や冷たい北風 (burja) から守りあうように身を寄せあっている。
ゴシックから擬古主義におよぶ様式の建築が、すっかり融け合って一つになっている。パステルカラーのパラッツォは地中海の軽快さ。大きめの四角い舗石の敷き詰められた狭い道が、森の中の空き地 Lichtung のような小さな広場に導く。
岬は北側がせりあがって断崖となって落ちており、その丘の上に聖ゲオルク大聖堂 (Sveti Jurji) が建つ。鐘楼のてっぺんに立っているのは風見鶏になっている大天使ミカエルの像。大聖堂前からは、楕円形のタルティーニ広場と港が見下ろせる。
そこから東に、岬の付け根に向かって歩いていくと、糸杉やヒマラヤスギの生えた斜面に重厚な城壁が、岬の街を陸からも隔てている。城壁の上には登ることができて、そこから眺める紺碧のアドリア海に突き出した街の全容は本当に美しい。この絵はがき的に美しい絵柄は、城壁に登りさえすれば誰でも撮れる。
ピランの名は、ギリシャ語の pyros から来たのだろうと推測されている。火、つまり灯台だ。古代の船は、灯された火を見て、この岩がちの岬に衝突するのを避けたのだ。ピランはまずローマの植民地として開かれ、それからビザンチン帝国の一部となった。(イゾンツォ川デルタの都市アキレヤの住民の一部が、452年にアッチラの率いるフン族の襲撃を受けた際、舟でトリエステ湾を渡り、このピランの地に住み着いた、という起源神話もある。)1283年から以後500年以上にわたってヴェネツィアの支配下に入るが、その間にも通商の権利と自治を勝ち取っている。ヴェネツィアの支配は悪いことではなかったようで、宗主の通商路を利用して、ピランは塩や干魚、ワイン、油をレバント地方(地中海東部)にまで出荷する。塩は近くの塩田で豊富に産出した。1797年から1918年まで、街はハプスブルク帝国の支配下(一時フランスの支配下)にあり、その後第二次大戦末まではイタリアの領土で、1945年から9年間はトリエステに支配されていた。1954年から1990年はスロヴェニア全体とともにユーゴスラヴィアに属していたが、この時代にイタリア系少数民族の権利は確保された。道路標識、学校教育、ラジオ放送などが、イタリア語でも行われることが認められた。
とにかくイタリアはすぐそこ、近い。スーパーやレストランでも、スロヴェニア語の「さようなら」nasvidenje よりもイタリア語の ciao のほうがよく聞かれる。リュブリャーナの食堂(例外はいずれ書く)ではたいてい食うに耐えないスパゲッティも、このあたりではだいたい安心して食べられる。



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