考えてみると、このドブロヴニクでは、いろいろな人々に出会っている。
数日たって、いかにもバックパッカーという出で立ちのオーストラリア人の若い男の二人組が宿の客に加わった。きっとまたおばちゃんがバスターミナルから引っ張ってきたのだろう。やがて僕が夕食をごちそうになっていることを彼らはかぎつけた。へんだなあ、どういうことだ? と問われて曖昧にごまかし、おばちゃんには、もう夕食はいいよ、と言った。子供たちは、えー、なんでー? と言っていたけれども、おばちゃんはほっとしたようだった。しかしこの二人とはまあまあ仲良くつきあって、一緒に旧市街を歩いたりもした。
旧市街は古い城壁に囲まれていて、車はいっさい入れない。城壁の入り口の一つ、ピレ門から、ルジャ広場まで二百メートルあまり、異様に広い目抜き通りのプラツァ通りがずどんと通っている。舗石は年月にみがかれて、つるつるに光っている。プラツァ通り以外の道は、すべてとても細い。
セミナーハウスには、他にもいくつかのグループが来ていた。フランクフルト大学からも社会学系の連中が一団体、やってきていた。その参加者の中に、パトリシアという女の子がいた。アルゼンチンからフランクフルトへの留学生。小柄で、黒い髪を長く伸ばし、眼のくりくりした、8分の1日系だという彼女は、ドイツ女ばかり見てきた眼にはとってもキュートに見えた。クロアチア語でお茶のことを「チャーイ」と言うということが、ことのほか嬉しいらしかった。ちょっと舌足らずな感じのドイツ語をしゃべり、僕の片言のスペイン語を笑っていた。一緒に町の回りの城壁の上をぐるぐる歩いたり、町の先端の水族館の脇にあった薄暗い食堂でパスタを食べたりした。でも、なぜだったかは忘れたが(たぶん実に些細な行き違いだったはずだ)、そのうちうまくいかなくなって、後半は全然顔を見なかった。いや、一度、ドイツ人学生らしい男と連れ立って歩いているのを見た。
ドブロヴニクの人々は、夕刻になるといっせいに外に出てくる。そしてさしたる距離でもない旧市街の目抜き通りの石畳の上ををひたすら行ったり来たり散歩し、あるいはまた戸外の席でチャーイを飲んだりするのだ。このいかにも南欧の、夕方の散歩の時間のざわめきには、独特の雰囲気がある。
われわれのセミナーには、もちろんベオグラードの哲学者もいた。初日、宿に戻るバスが分からず困っていた僕を助けて、町の人にバス停を尋ねてくれた。そのときの、セルビア人の彼とクロアチア人の地元の人間との間のやりとりに何か不穏なものがあったのを覚えている。クロアチア人は、ふつう、髭を伸ばさない。細面ながら黒々とした総ひげの彼は、見るからにセルビア人だった。残念ながら、当時、やりとりの言葉は分からなかったのだけれど、すでにセルビアとクロアチアのぎくしゃくした関係が影を落としていたのかもしれない、とあとになって思う。
フランスからフィリップ・フォルジェもセミナーに参加していた。ドイツ人よりも流暢なドイツ語をしゃべった。ドブロヴニクの沖合に、ロクルム Lokrum という島がある。さほど広くはないのだが、三カ所ほど浜があって、夏は海水浴客でにぎわうという。セミナー終了の前日、その島への遠足があった。二十人も乗ればいっぱいになってしまうような船が、町の波止場と島を結んでいた。島の野原には孔雀がいた。放し飼いの、と言うべきなのか野生の、と言うべきなのかは分からない。島の遊歩道を、フォルジェとおしゃべりをしながら散歩した。サングラスをかけて、饒舌な、気さくな優男。長年続いているこのセミナーの、次回のテーマの話。フォルジェは文学寄りに持っていきたいのだけれど、他の哲学者連中がいい顔をしないのだ、とか。次回はヘーゲルになりそうだ。ヘーゲルを文学として読んじゃえばいいじゃん、哲学だって文学でしょ、と言ったら、うん、その通り! と嬉しそうだった。(この数年後、日本からT. 高橋氏がフォルジェのところに勉強しにいったのではなかったかと思う。)
フォルジェと船着き場近くに戻ったところで、ウィーンから来た大学生の女の子に出会った。フランスに勉強に行きたいです、と言う彼女に、フォルジェは嬉々として連絡先を教えていた。そのあと、僕は彼女と話し込む。船着き場にはいくつものムラサキウニがへばりついていた。日本ではね、こいつを食べるんだよ、と説明しながら割ってみせると、全部オスだった。ちょうど、すでに満員の、前の船が出るところだった。屋根のないその船の中に、パトリシアの姿が見えた。連れらしい人物はおらず、一人で座っていた。じっと僕の方を見ていた。少しふくれ面になっているように思えた。
次の船で町に戻り、すでに夕刻の散歩に出てきていた人々の雑踏の中にパトリシアの姿を探したが、見つからなかった。同じセミナーの参加者で、カイザーズラウターンから来ていたでっぷりした哲学者に呼び止められて、ドブロヴニク最後の夕食を一緒に摂ることになった。
翌朝、ドブロヴニク郊外の空港から、往路とは違って一直線に、ドイツに戻った。連絡先も聞かなかったパトリシアには、それ以来再び会うことはなかった。あの船の中のふくれ面が最後。今頃、どこでどうしているだろうか。
あのセミナーにも(すくなくとも何年か続いていたはずだが)、その後、参加していない。すでにジーモン先生も退官されてしまった。
あの民宿のこどもたちだって、その後いわゆる多感な時期にいわゆる内戦があったことになるわけで、そして無事であればもうとうに成人しているはずで、どうしているだろうか。
あのベオグラードの髭の哲学者も、この十年を生き延びて、ようやく新たな歩みを踏み出しつつあるあの国で、元気だろうか。
筆無精な僕には、すべて、分からない。民宿のおばちゃんも、オーストラリアの放浪者たちも、みんな、それぞれに、しっかり生きていてくれればいいなと思う。
# なんだか紅茶とマドレーヌのかわりにアスパラガスから始まる〈失われた時を求めて〉になってしまった…。



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